謎多きアニメ会社「日本動画」について元関係者の方に尋ねてみた!
どうも、Doughです。今回はタイトル通り。
謎多きアニメ制作会社「日本動画」の元関係者さんへのインタビューが実現しました!
取材内容はとりあえず置いといて、まず日本動画について説明しよう。
日本動画について
『日本動画』といえば、ポロニスト的にはポロンのアニメーション制作を手掛けた、時報映画社の子会社として知られているだろう。(TVアニメ25年史による情報)
しかし、同時期に「殺生石」「日本漫画映画発達史」などを手掛けた『日本動画』という会社も存在した。2016年時点の見解では、「同社は関係ない」という結論に至っていたが、後から「実は関係あるのではないか」とか言われたりして結局謎のまま…という状況で、謎が謎を呼んでいる。(詳細は星の子ポロンまとめWikiに詳しくまとめているのでぜひご覧頂きたい。)
今回はその「日本動画」の元関係者の方にインタビューを行った。
ただ、日本動画にそこまで深く関わっている方ではないので、前述の謎については今回の取材でも解き明かせていないことにご留意いただきたい。ただ、謎を紐解く上でのきっかけにはなるのではないかと思う。
ついにインタビュー!黒田輝彦さん
というわけで、本題である。
今回インタビューさせていただいたのは、黒田プロダクションの黒田輝彦さんだ。
黒田さんは1960年代後半に、日本動画の作品にフリーの立場で参加していたそうだ。
その後、日本動画を離れ自主製作で『ザ・サカナマン』などのカツオやマグロの記録映画を制作されたという。黒田プロの制作作品は、公式でYouTubeに投稿されているのでぜひ見てみてほしい。
まずは、インタビューに至った経緯についてお話しよう。
①黒田プロ制作『ザ・サカナマン』に日本動画所属として岸本政由さんという方がクレジットされていることを知る。
ザ・サカナマン-一漁師キャメラマンの現状報告-|配信映画|科学映像館 https://t.co/PgrNHSdVE2
— Dough (@doughnut_f) 2017年4月4日
この作品に『岸本政由(日本動画株式会社)』という人物が協力として関わっているようです。
②文献から、日本動画の代表者が上記の岸本政由さんであったことを知る。
時報関係の記載はなかったけど、日本動画株式会社は記載してた。主に会社の概要とか作品とか。 pic.twitter.com/IIVfAOEM6C
— 🍊おしゃぶりオレンジ🍊 (@oshaburiorange) 2018年2月7日
③黒田輝彦さんのSNSアカウントを見つけ、「岸本さんについてなにかご存知なのでは…?」と思いダメもとでメッセージを送ってみる
④黒田さん「当時岸本さんと親しく、フリーの立場で日本動画の作品に参加してました。(要約)」
↓
というわけで、SNSを通してのインタビュー取材が叶いました~~~!
本記事では、黒田さんにインタビューした内容を箇条書きで纏めていく。なお、50年も前のことで記憶が曖昧な部分もあるとのことなので、ご留意の上で読んでいただきたい。
1960年代のアニメ下請け会社「朋映プロダクション」について
黒田さんは「朋映プロダクション」というアニメ下請け会社で業界入りし、岸本政由さんに出会ったという。朋映プロは、主にTCJの下請けを手掛けていた会社である。朋映プロに関しての情報は極度に少ないが、一般に布川ゆうじさんの出身スタジオとして有名である。
本記事の本旨とは直接関係無いが、貴重なお話なので記述する。
~朋映プロについて~
- 岸本さんとはじめて会ったのは朋映プロ。
- 当時朋映プロはTCJの下請けとして『宇宙少年ソラン』を作っていた。
- 新聞の求人広告を見て朋映プロを訪ね、撮影部として3ヶ月(試用期間)働いた。(その後、岸本さんのご紹介で元東宝の瀬川順一キャメラマンに弟子入りして、黒田さんの映画の撮影部としての仕事が始まった。)
- 黒田さんがいたころの朋映プロは出来たばかりだった。
~スタッフについて~
- 岸本政由さんは朋映プロの撮影部長だった。
- 当時の朋映プロの社長は津藤さん、アニメーターのトップは若林さん*1、タイトル関係は島田さんだった。(名前不詳とのこと)
- 島田さんがご存命であれば朋映プロに詳しい。朋映プロを辞めてから島田さんの名前は映画の字幕でよく名前を目にした。
- 岸本さんに引き抜かれて佐々木さんと言うアニメーターが日本動画へ移籍した。
- アニメーターでタツノコプロに行った人もいた。
- 朋映プロでの在籍時期は布川ゆうじさんとは重なっていなかった。もしかしたら在社時期が重なったかもしれないが、お付き合いした記憶はない。
~その他~
編者のひとこと
アニメーターのトップの若林さんは、恐らく『黄金バット』や『妖怪人間ベム』のキャラクターデザイナーである若林忠生さんのことだと思われる。
調べてみると、若林さんはその後、ワックというスタジオに所属して『そばかすプッチー』『ピンチとパンチ』『男一匹ガキ大将』『いたずら天使チッポちゃん』『親子クラブ』といった帯アニメを中心に手掛けていた。もしポロンが日本動画制作とすれば、岸本さんの縁で若林忠生さんに発注する可能性も考えられるのではないだろうか。(根拠なし)
殺生石を作った!謎多きアニメ会社「日本動画」について
ここからようやく本題である。
今まで日本動画の作品はどちらかというとマイナーで、勿論その制作会社である日本動画もマイナーであり、日本動画という会社は、これまでアニメ誌で取り上げられることもなく、謎のベールに包まれていた。
過去には、2012年に「映画の國」のコラムで取り上げられ、長田千鶴子さんや杉山卓さんへのインタビューを元にした記事が書かれているものの、残念ながらそちらは「殺生石」のインタビューが中心で、それ以後の日本動画にはほとんど触れられていない。
もし日本動画がポロンに関わっているとすれば、1970年代以降の日本動画を知る必要がある。そこで、今回はその時期の日本動画についてを中心に、黒田さんにインタビューをさせていただいた。
~日本動画と黒田さんについて~
- 社員として在籍したことはない。
- 岸本さんと親しいことから、フリーの立場で作品ごとに撮影助手として雇われて仕事をした。
- 日本動画で日本テレビの放送が始まる時のオープニング映像*2を作った記憶がある。
- 『殺生石』で人間の体の動きをアニメの参考にするため、岸本さんがキャメラマンで能舞台で役者を撮った際、撮影助手をした。
- 沖縄の平安座島の石油基地の建設記録映画*3を数回通って撮った。撮影は岸本さんで、時々黒田さんもカメラを回した。
- この仕事をなぜ日本動画がやったか詳細は分からないが、多分、中島源太郎さんの政治力だったと思っている。
- 『ザ・サカナマン』の撮影済みのネガフィルムの外地からの受取人や編集には、日本動画を利用させてもらった。
- 自分の仕事のない時によく日本動画に遊びに行っていて、遠洋マグロ船の映画では編集機を置かせてもらって編集し、仕上げた。
~日本動画について~
- 日本動画の社長は存命中は中島源太郎さんだった。死後は遺族のどなたかだと思う。(正確には聞いていないとのこと)
- 薮下泰治さんが社長を務めたこともある。
- 薮下さんは温厚な人という印象。
- 日本動画に常勤として出社していたのは岸本さんが一番多かったと思う。
- 日本動画は中島源太郎さんが存命中は存続していたと思う。
- 日本動画としての最後の制作活動は沖縄の石油基地建設記録映画*4だけかと思う。
- 岸本さんと薮下さんはそりが合わなかった印象。
- 上記の理由でなんとなく制作活動は消滅していったのではないかと思う。
- 当時の正確な時系列は記憶が不鮮明だが、会社のガラス製のドアに「グエンプラニングセンター」と言う社名が併記してあったこともあった。
~その後について~
編者のひとこと
なんと日本動画は日テレのOPを制作されていたとのことで、日本動画は日テレと繋がりが強かったことが伺える。
「TVアニメ25年史」のポロンの作品解説(時報映画社長へのインタビューを元にかかれている)には『日本動画のスタッフは草創期のナックの作画部門として「すばらしい世界旅行」などにも参加した。』と記述されていた。「すばらしい世界旅行」といえば、そう、日テレの番組である。更に、時報映画社は1969年に『ゼンちゃんツーちゃん』を日テレ系で放送している。
ということは…、「日本動画」の謎を解き明かすには、日本テレビの存在がキーとなる可能性が高いのではないだろうか?
まとめ
黒田さん、大量の質問にお答えいただきありがとうございました!
最後に今回インタビューさせていただいた黒田輝彦さんについてご紹介させていただこう。
黒田さんは、自主製作の記録映画(主にカツオとマグロ)が完成する度に、太平洋側の主な漁港漁村を巡回上映していて、その過程で岩手県大槌町の人に出会い、お世話になったという。そして、現在黒田さんは、震災前に撮った岩手県大槌町の古い映像をまとめて、映画化することを進めていて、朝日新聞が運営するクラウドファンディング・Aportに申請している最中だそうだ。興味のある方はぜひチェックしてみてほしい。
(2018年12月27日初出、2019年08月26日に言い回しの修正を行いました。)